家事は2人で分担すべきなのだろうか?という疑問

相方から「今後の家庭運営における収支シミュレーションを作成しろ」という厳命を授かり、いろいろと調べ物をしている中で、家事に関する興味深い記事を見つけた。

主婦の最大のタスクは、家事でも育児でもなく、実は家庭経営であり、大変なのは毎日延々と続く小さな決断のストレスである。経営というのは、ヒト・モノ・カネのリソース配分を決めるということで、人事(作業の配分、後進=子供の育成など)総務(ロジスティクス、スケジューリング、医療・介護・義家族・近所付き合い・冠婚葬祭など)財務(予算配分、資産管理など)といったところが、料理洗濯掃除の肉体労働の部分よりも、実は重要だしストレスフルなのだ。
主婦が欲しいのは、「メイド」じゃなくて「執事」(または「秘書」) - michikaifu’s diary

家庭という、小さいながらも多種多様な側面を持つ世界を、さまざまなバランスに配慮しながら、絶妙なさじ加減で差配していく面白さ。
主婦は東大卒女性の天職 « 東大法卒41歳ママ日記

単純労働としての家事を少し齧ったぐらいでドヤ顔しているバカなオトコどもよ、これが「マネージメントとしての家事」の高みだ! という主張(僕の偏見)はごもっともでありまして、冒頭のシミュレーションを作るのもそもそもの前提設定が色々と既に面倒なものですから、実際に意思決定を行う際のストレスはいかばかりのものだろうと思われるわけです。


家事は、単純作業よりも意思決定のほうが面倒くさい。


であるならば、わりと真剣に2人で家事を分担すんぜ!と思っている僕としては、オトコも「家計のマネージメント」を分担すれば万事オッケーなんじゃなかろうか、と単純に思ったわけです。東大卒の女性はそんなこと望んでいないようですが、面倒な意思決定の手間は、普通であれば省きたいと思うものですし。


ところが、少し考えてみると、それほど簡単にいくわけではなさそうでした。


単純労働としての家事(掃除・洗濯)を肩代わりさせるのは簡単な話です。オンナとしては手間が単純に減り、ハッピー。(オトコの家事のクオリティの低さに苛立たしく思うかもしれませんが。。。)オトコを有機的ルンバだと思えばいいわけです。
オトコとしても、掃除・洗濯は確かに面倒ではありますが、「家事を分担している」というアリバイ作りができます。


ところが、家計のマネージメントを分担する際はそうはいかない。具体的には、家庭運営を分担した場合、得をするのは誰なのかということを考えると、案外うまくいかないものだと気づかされます。


意思決定を分担すれば、必ず意見の食い違いが生まれます。
家庭におけるオトコとオンナの間に、考えの違いが一切なければよいのでしょうが、もちろん、そんな夢のように息ピッタリな夫婦などいるわけがありません。
子どもの育て方やマイホームの購入といった大きな問題から、食器のセンスから家電製品を使わない時は主電源からオフにするのかといったちいさーい話まで、数多存在する異性の中からたった1人のパートナーを選び、作り上げた夫婦でさえ、意見の食い違いは絶えないものです。


意見の異なる二者が話し合う作業は、基本的に面倒くさいです。少なくとも標準的日本人の僕にとっては。こちらについては言葉を尽くさなくとも、会社で行われる不毛なくせに長い会議を思い起こしてもらえれば、十分だと思います。


話し合いは、面倒くさい。


会社であれば役職とか建前とかいう社会的な防護壁がプラスに働いて、ある程度無難な落としどころを見つけることが可能ですが、家庭というごくごくプライベートな空間にあっては、そういった社会的なクッションは最小限になっているため、ほとんど剥き出しの嗜好・考えがぶつかり合うことになりがちです。


そんな中で、家庭運営を分担するとしたら。


オトコとしては、これまで背負っていなかった家庭運営における意思決定というタスクが新たに生じるため、負担増となります。しかも、単純な掃除・洗濯を肩代わりした場合に比べ、「俺も家事やってんだぜー」と周りに言いにくい(ような気がします。)


ではオンナは負担減となるかというと、そうとも限らない。これまで一手に引き受けていた家庭運営の責任は軽くなるものの、今度はオトコとの話し合いという新たなタスクが生じてしまうわけです。そんでもってオトコは大体アホちんなので、オンナの言っていることなど理解できないわけです。削減される手間よりも、新たに生じるコストの方が大きくなってしまう可能性がおおいにあり得ます。


そんなわけで、家計のマネージメントを分担できるかどうかは、
・新たに生じる、話し合いにかかるコミュニケーションコストを、家庭運営の削減コストより小さくできるかどうか
・オトコ側に、家庭運営に携わるメリットを見出す余地があるかどうか
の2点にかかってくるような気がします。


両者ともなかなかに難しそうなので、一般論としてはオンナが(これまで断りもなくオンナと断定していましたが、正確に言えばメインの収入源ではない方が)家庭運営における意思決定権限者となり、適度に単純な労働をオトコに割り振るというのが、1番コストとしては小さくなるのかなーという、思ったよりも悲観的な結論に落ち着いてしまいました。


単純に家事を分担すればオンナの負担も軽くなるし、という観点で家事分担推進派であったのですが、少し考え直しが必要そうです。

「都会に出て行けばいいじゃん」論について

はてブ界隈で、都会と田舎をめぐる議論が盛り上がっているのを、興味深く眺めております。始まりは下の記事。



無職の父と、田舎の未来について。(9/24追記) - どさんこ田舎者、東京でいろいろつくる


北海道に住む父親の窮状を憂いていた元記事主は、以下の問題提起を行います。


1 向上心があまりなく、身体が丈夫でなく、コミュニケーションが取りにくい人間に、できる仕事はあるか。
2 そういった仕事を、人口100万以上の都市まで車で4時間かかるような、田舎に作ることはできるか。
3 そういった仕事に限らず、都会から田舎に仕事を流すことはできるか。


多くの人がこの問題提起に触発されて記事を書いたり、 twitterにツイートをしているのを見るに、都会と田舎をめぐる議論への関心の高さがうかがえます。


元記事の問題提起に対し、「やっぱり地方に1〜3の答えを用意するのは難しい」というコメントが多いのは、さもありなんという感じです。僕も、有効なアイデアは何もありません。それだけ、田舎の現実はシビアに考えなければいけない問題だと思います。

ただ、「都会に移住しろ」といったコメントが多いことには驚かされてしまいました。元記事は、明記されてはいないですが、「都会に出ない、という選択をした場合」、という暗黙の前提があると捉えていたからです。



なぜか。仕事がなく、生活が成り立っていないと感じる人にとって、都会に出るという選択肢はおそらくリストの最初のほうに来るはずなのです。(事実、記事の中でも都会に出るという選択肢は挙げられています。そのあと、特に考察はありませんが)ほんとに都会に仕事があるのかは、また別の話として。それでも田舎に残る人が多いのは、当然理由があるのでしょう。

住み慣れた土地を離れるためには、多くのものを失う可能性があります。例えば、人の繋がり。地元で築いた人間関係や仕事の繋がりは、基本的には絶たれます。金銭面では、持ち家がある場合、手放するなり誰かに貸すなりする必要がありますし、ローンの問題もあります。借り家であっても、引越しにあたってはそれなりの金額が必要になります。
そして、こういった実際的なデメリット以上に、住み慣れた家を離れることに対する心理的な抵抗感は、非常に大きいものです。それは理屈を超えたものです。

これらのデメリットを乗り越えても移住するというのは、現状維持では生活が成り立たない、という強い危機感、または切実な生活の危機が存在するか、都会に出て行くことに強い憧れがある場合のみではなかろうかと思います。

逆に言えば、上のような田舎に対するしがらみがない人は「移住しろ」という意見にも同意できると思うのです。が、そういう人はだいたい若い人ですよね。コメントしているのもそういった層なのかなと思います。



これからどんどん都市化が進むことは間違いないですし、その中にはある程度年配の方も含まれるとは思います。ただ、じゃあ地方に残る人がいなくなるか、というとそれは絶対ない。そして、残る人の大部分は「非若者」のはずです。元記事のお父さんのような人にとって、「都会に出る」という選択肢は無意識的に、しかし最初に却下される問題なのだと思います。



経済的合理性「だけ」を考えるのであれば、人はある程度密集して暮らすべき、という考えは当たり前です。集中して暮らせば、当然一人当たりの生活コストは下がるのですから。

とは言っても、地方に残る人は、上のような理由により、必ず存在するはずです。都会に出た人だけ救われればいい、という話でもないはずです。だからこそ、元記事の1〜3の問いについて「都会には出ないという選択をした上で」考える必要があるのかなと思います。

都会に向けて地方が「こっち見てよ」という試みについて

「地方と都会」の関係について、ピシャっと言い放っていたtweetがあったので思わずretweet

だめなSNSユーザと、だめな地方PRって似てるような気がする。まず自分側が面白くない点に気付くべきだよね。なんにもなさそうのに「フォローしてください」とか「いっぺん遊びにきてください」とかは有り得ないからさ。
@jetdaisuke


結局、コンテンツもないのに「地方にきてください」と言っても、実際に都会の人の目を向けるのは難しいですよね。
そんなことを思うきっかけになったのは以下の別の記事。


http://d.hatena.ne.jp/komoko-i/20110918/p1


地方に住んでいた時感じていた、「都会」を見ることしかできないもどかしさ。


「あこがれ」も「あきらめ」も、見ることしかできないからこそ生まれるものだと思います。自分が視線の先に参加することができないから、相手にあこがれ、うらやむ。自分の持っていないおもちゃを持っている相手のように。

だからこそ、地方の人は都会に対して、「こっち向け!」とアピールしがちです。自分だけが都会に対して「あこがれ」を持っている不公平感を払しょくするために。

地方からどんどん発信してよいと思います。

地方でも元気にやっている人がいるんだってことをもっとアピールしたい。


これまで一方通行だった視線(地方から都会に対する視線)を、地方にも向けようとする姿勢。
そして、今現在多くの地方部で行われている地域活性化などの試みと、同様の考えだと思います。


けれども、冒頭のtweetでもあるとおり、コンテンツの量とか面白さでいったら、どうしたって地方は都会に、負けてしまう。(ここで「コンテンツ」が何を指すのかにもよると思いますが。)そのあたりをよく考慮せず、とにかく「声をあげる」ことを目標にしてしまうと、むしろ他の声と混ざって埋没してしまうのではないか、と。


「地方にも面白いことがあるよ!」と声を出して、都会の視線を地方に振り向かせようとするだけでは、うまくいかないのだと思います。部分的には、うまくいくかもしれません。いくらかの人々は、地方を向いてくれると思います。ただ、声の大きさで勝負する限りは、どうしたって数が多い方が勝ってしまうのです。

じゃあどうすればいいの、という問いに、具体的な答えは何も用意がないのですが、今の気持ちを記録する意味で、postしておきます。

題名で損している/山本ケンイチ『仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか』

仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか (幻冬舎新書)

仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか (幻冬舎新書)

いま体を鍛えるビジネスマンが急増中。経営者や金融マン、クリエイターなど、常に成果を求められる人ほど、トレーニングに時間とお金を投資している。筋肉を鍛え維持することは、もはや英語やITにも匹敵するビジネススキルなのだ。本書では「直感力・集中力が高まる」「精神がタフになる」など、筋トレがメンタル面に大きな変化をもたらすメカニズムを解説。続けるための工夫、効果を高める食事・睡眠、ジムの活用法など、独自のノウハウも満載した画期的トレーニング論。

読む前の内容予想

「仕事ができるデキリーマンはすべからく筋トレしている!なぜなら、筋トレにはビジネススキルをアップさせる○○なパワーがあるのだ!
 仕事のできないそこの君も、筋トレさえすれば、デキリーマンの仲間入り!」

読後の感想

マーケティングのためのタイトルづけが、大きく失敗している例。


ミーハーな自己啓発本のようなタイトルでありながら、非常に実直で、哲学的でさえある内容。著者のトレーニングにかける思いと知識の深さがにじみ出ています。


著者の主張は以下のようなものです。

お金で買えたり、短時間で結果が出るものがもてはやされる時代にあって、鍛えた肉体はその場で手に入れられるものではない。コンビニなどに置いてある雑誌で歌われているように、「このトレーニングをすれば1週間で筋肉がつく」などということはありえない。短絡的なことばかりがもてはやされる現代において、筋トレは、数少ない短絡的ではないものだ。
筋トレにおいて大切なことはむしろ、「プロセスの重要性、粛々と努力を積み重ねることの重大さに気づく」こと。そしてそれは、ビジネスにおいて、困難な課題を乗り越えて成果をあげるための方法論と同様である。だからこそ、「仕事ができる人は、トレーニングをやっても優秀である」


ただ、「ビジネス」という視点は本の中ではいくぶん後ろに追いやられ、「筋トレは積み重ねていくことで成果がでるもの」であり、だからこそ「継続していくこと」が大切だと懇々と説かれています。そのために、モチベーションをどう保つか、やめたいという欲望からどう逃れるのか、という方法論を展開しています。その意味で、習慣づけの方法論としても読める本です。


多分「ビジネス」という視点を押し出したのは、編集者なのだろうと予想しています。「こんな地味な内容じゃ売れないですよ。そうだ、山本さんのクライアントってビジネスパーソンが多いんですよね?筋トレとビジネスを結び付ける、これで行きましょう!」という編集者の考えが透けて見えます。


しかし、非常にいい意味でタイトルと内容が異なっているので、「お手軽にデキリーマンになりたい」という読者層には内容で離れられてしまうし、実直にトレーニングをしたい層にはそもそも手にとってもらえないし、と、マーケティングを意識しすぎて勿体ないことになっている本です。

時間=資本という考えが腑に落ちない理由

「時間の使い方」は僕の一大関心テーマでもあるので、この記事を興味深く読みました。


gw07.net


「時間を有効活用して自己投資に割り当てようぜ!」という趣旨の記事ですが、全くもって正論にもかかわらず、なにか腑に落ちません。はてブなどのコメントも、「そりゃわかっちゃいるけど…」みたいな意見が多数。


この腑に落ちなさはなんだろうと考えていると、それはきっと筆者が持ってる「時間の有効活用=未来への投資」というアナロジーが共有されていないから、なんだと思います。


他の記事を読めばその前提は明らかなんですが、筆者は明らかに時間を投資と同じ論理で考えています。

意識的に行動することで投資に振り向ける資本を増大させ、投下資本とリターンを把握した上で長期的なリターンを狙っていくことは資本を時間に置き換えただけで投資の鉄則と同じことです。
 まさに時は金なりですね。
実践して分かった「時間管理」の効用


「現在時点で正しく資本を投入(時間を有効活用)すれば、時間の経過とともにより大きなリターン(成長)が得られる」という論理。投資の考え方としては、ごくごく一般的なものだと思います。



ただ、時間という観点で見たとき、そういう感覚を実感として持っているという人は、案外少ないんじゃないかと思うんです。「かつてコツコツと積み重ねた時間(努力)が、ある時実を結んだ」という体験を、意識的に生み出した人は、何の世界でもそれなりに大成した人でしょう。特にある程度成長してから始めた積み重ねは、若い人だとまだ成果を生みだしていないことが多い(と考えられます)ので、実感として感じにくい。

「司法試験のための勉強」のように、職業に直結している時間の使い方ならある程度リターンを想像することもできます。ただ、「英語」やら「会計」の勉強をした時に、どの程度リターンが得られるか、というのは、かなりあやふやで、はっきりと測定することも難しい。

だから、「適切に時間というリソースを投入すれば、やがて大きなリターンに結びつく」と言われても、「はあ・・・おっしゃるとおりでございます」となってしまうんじゃなかろうか、と思います。論理としては正しくても実感として持てない。


だからこそ、「時間を有効に使おう」という時には、「そしたら未来にこんな大きな果実が手に入るよ!」ということをリアルに想像させるツールが必要なのかもしれませんね。もしくは、そういう未来をリアルに想像する訓練を積むことで、時間管理はうまくなるのかも。

伊坂幸太郎『オー!ファーザー』

作家がくだした「この作品を残すべきでない」という直観は、案外正しいのかもしれません。

オー!ファーザー

オー!ファーザー

みんな、俺の話を聞いたら尊敬したくなるよ。我が家は、六人家族で大変なんだ。そんなのは珍しくない?いや、そうじゃないんだ、母一人、子一人なのはいいとして、父親が四人もいるんだよ。しかも、みんなどこか変わっていて。俺は普通の高校生で、ごく普通に生活していたいだけなのに。そして、今回、変な事件に巻き込まれて―。


単行本の<あとがき>で、伊坂さんはこの作品をこう評しています。

「当時、このお話を気に入ってはいたものの、書き上げた際に、「何かが足りなかったのではないか」という思いがありました。(中略)また、物語があまりに自分の得意な要素やパターンで作り上げられているため、挑戦が足りなかったのではないか、と感じずにはいられませんでした。」


自分でわかってるんじゃん、と思いました。正直。
この作品を読んで、かなりがっかりしてしまったから。



この作品、決してつまらない話ではないのです。本を壁に投げつけたくなるような駄作では、全然ない。
いつもの伊坂節は健在です。マンガ的に誇張された、でもどこか魅力的なキャラクターと、彼らが織りなすウィットに富んだ会話。何気ないように見えて、実は周到に計算された伏線の数々。他の作者だったら、十分満足する出来だと思います。


でも、いや、だからこそ、「そこそこ読めてしまう」という点でたちが悪いのかなぁ、と伊坂ファンとしては思ってしまいます。

面白くなくはない。もう少しページを繰れば、いつものように驚きの展開が待っているはず。そんな期待を胸に読み進めていけど、一向に物語は進みません。「父親が四人いる」という、いわば物語の起承転結の「起」の部分は早々に語られます。キャラも魅力的だし、突飛な設定に小技を効かせたシナリオで読ませます。


ところが、冒頭から彼らのエピソードが延々と続く。本編はまだか。とジリジリしながら読み進めていくと、ようやく「承」らしきものがあらわれてきます。いや、実は「承」はほとんど冒頭から始まっているのだけど、きちんとした形となって現れるのが後半になってからなのです。
しかもその本筋もなんだかしょぼくて、「物語の設定を何とか活かそうとひねりだした」もののように感じられて仕方がありません。
これは、いつもの伊坂作品に親しんでいるからこそ、「この何気な一文が実は伏線かもしれない」と疑いながら読み進めているからかもしれませんが。



作者曰く、この『オー、ファーザー』は伊坂幸太郎の「第一期」最後の作品らしいのです。

「そして、その頃からちょうど僕自身の中で「別のタイプの物語を書かなくてはならない」という思いが強くなり、今までとは少し違う小説を創りはじめることを決めていました。あまり好きな表現ではないのですが、簡単に言ってしまうと、その次の「ゴールデンスランバー」からが第二期と呼べるのかもしれません。」

 そういう意味で言えば、あるいはこの作品は「伊坂幸太郎第一期ダイジェスト版」のような立ち位置になるのかもしれませんね。伊坂幸太郎らしさ、の片鱗を味わうにはいい作品かも・・・しれなくもないかもしれない。

本番から遠く離れて

先日、簿記を受験しました。ビジネスマンの必須科目、簿記。遠く北陸の地に身を置く頃からいつか受けなきゃ受けなきゃと思いながら無為に時間を過ごし、早一年、やっと受験することができました。


自慢ではありませんが、学生時代は試験というものが大層得意で、一時期は「俺が答えを書くんじゃない。俺が書いたものが答えになるんだ」と妄言を嘯いたりしておったものです。ちなみに、先の台詞を知り合いに放ったらば、ただ一言、「シネ」と一笑にさえ付されずに真顔で絶命を命じられ、ひどく悲しんだことを覚えています。


ところが、社会に出てから、かつての勢いは完全に削がれてしまいます。辛くも合格をもぎとったとしても、それはボーダーライン上の辛勝。時には不合格の烙印を押されることさえありました。どうした俺の才能。


そんなわけで、最近はめっきり自分の学力に不信感を抱いていたわけですが、なんとかやる気が芽生えない自己を叱咤しながら、試験日までこぎ着けました。試験開始前、試験管が問題用紙を配ります。前の席から順番に。何となく学生の頃を思い出し、懐かしい気持ちになります。この時点では、当然問題は見ることはできません。


次に、解答用紙が配られました。そこには、数字を埋める枠線と、財務諸表の一部とおぼしき数字が羅列されています。それだけで問題を把握することはできないのですが、ある程度の推測はできます。
解答用紙をみた瞬間、「やった」と思いました。これなら解けそうだ。「これ、進研ゼミでやった問題だ!」状態ですね。見事にヤマがあたったのです!無闇に過去問を解いた成果です。


ところが、試験開始直後、実際に問題用紙を開いた瞬間、軽いパニックになってしまいました。解答用紙の形式から類推した問題と、悉く違うのです。どうしよう。俺の時計はぴたりと止まります。
だんだんと、脇の下に変な汗をかいてきました。問題用紙を意味もなく繰っては、問題文に下線を引いてみます。意味がわかりません。どうしよう。焦ります。


幸運なことに、開始五分くらいして、無意識の澱の中に沈んでいたかつての優秀な俺が後方から「落ち着けー落ち着けー」と語りかけてきたので、冷静さを取り戻し、事なきを得ました。はたと冷静になってみれば、それはやっぱり過去問で解いたものに似たタイプで、きちんと順を追って作業すれば問題なく解けるものでした。楽勝楽勝、です。問題用紙は汗でぐしゃぐしゃになってしまいましたが。
 


何が言いたいかというと、たとえ簿記みたいな「平凡な」試験であっても、ここまで平常心を失ってしまうくらい、俺は「本番」から遠ざかっていたんだ、と気づいたのです。解答用紙を汗で濡らし、わかるはずの問題文さえきちんと理解する事もできないほど、焦りやすくなってしまったのだと。


仕事は、営業職ではなく、社内向けの仕事をしております。指示を受けるのも仰ぐのも社内の人間。自然、ミスにせよ成功にせよ、社外向けよりなあなあになります。一回こっきり、これを逃したら次はない、という勝負の瞬間はほとんどありません。


そういった環境のせいにするつもりは毛頭ありませんが、そんな環境が自分をここまで「勝負弱く」してしまったのだと、なんとなく悲しい気持ちで家路についたのでした。