コミュニケーション・ブレイク・ダンサー

世間ではコミュ力コミュ力言ってるけど、お手軽なコミュ力とは違って、真剣に誰かとコミュニケートすることはほんと、難しいと最近痛感している。


なんでかといえば、多分それは僕の経験に関係している。
子どもの頃、誰かと真剣に思いを共有する必要なんて、特になかった。都合の悪いことはうやむやにして、居心地が悪いときは逃げていれば、子どもの頃はどうにかなった。衝突してまで一緒にいる必要も、反目してまで共感する必要も見いだせなかった。


高校生の頃、ノートに思いの丈を書きまくっていた時期があった。高校生にして若干厨二をこじらせていたともいえる。その中に、「コミュニケーションとは神話であり、控えめに言っても幻想である」というなんともアホくさい言葉を考えては悦に入っていた。
今にして思えば、この言葉はコミュニケーションの根源的不可能性、なんて小難しいものではなくて、自分自身がコミュニケートすること、つまり誰かと思いを共有して共感する事から逃げていたからにすぎない。自分から関わることを拒否していれば、そりゃコミュニケーションなんてできるはずもない。



しかししかし。

人生のある段階になって、他人と思いを共有する必要性が出てきたときに、ハタと困ってしまった。逃げの姿勢が、自分の根本の中に意地悪く根づいてしまっているかのように、誰かに何かを伝えるために、どんな言葉を用いたらいいのか全くわからなくなっていた。うやむやにすることも、逃げることもできずに、なんとか自分の中から効果的な言葉を紡ごうとするものの、ただただ空虚な言葉を吐き出すばかり。結局は、何もわかりあえぬまま時間だけが過ぎていってしまう。自分が、自身の中にある幹を腐らせながら過ごしてきたかのような嫌悪感を抱いていた。


そんな時、気になる言葉を見つけた。

伊坂幸太郎の小説、『砂漠』の中のこんなくだりである。
主要人物の一人である西嶋が、世界平和を訴えるデモを後目に、言葉で何かを伝える困難さを、三島由紀夫の自決を引用してこのように述べる。

「驚かないといけないのはね、一人の人間が、本気で伝えたいことも伝わらない、っていうこの事実ですよ。三島由紀夫を、馬鹿、と一同両断で切り捨てた奴らもね、心のどこかでは、自分が本気を出せば、言いたいことが伝わるんだ、と思ってるはずですよ。絶対に。インターネットで意見を発信している人々もね、大新聞で偉そうな記事を書いている人だって、テレビ番組を作っている人や小説家だってね、やろうと思えば、本心が届くと過信しているんですよ。今は、本気を出していないだけで、その気になれば、理解を得られるはずだってね。でもね、三島由紀夫に無理だったのに、腹を切る覚悟でも声が届かないのに、あんなところで拡声器で叫んでも、難しいんですよ」


霞がかっていた言葉にならない思いが、はっきりとした形をもって自分の前にコロンと差し出されたような、そんな感覚がした。電車の中で、ページを繰る手が止まってしまうほどの衝撃を覚えた1節だった。



三島にさえ叶わず、おそらくは著者の伊坂でさえ「思いを伝える」ことの困難さを噛みしめている。言葉のプロたるその二人でさえ。それなのに、自分はたかだか数年、心の隅に少しだけ困難さを居座らせただけで、何かを諦観したような気持ちになっていた。本気を出せば達成できたものを、スポイルすることで台無しにしてしまったような勘違いをしていた。ただただ、恥ずかしい。


多分上述の文章は、「何かを伝えるってこんな難しいだでー」って言う事を表現したい一説なのだけれど、僕にとっては「ああ、他の人も同じことを考えているんだ」と安心させてくれる文章だった。多分それは間違った読みなのだけど、そういった間違えた読みもたまには心地よい。